ページ

2010-02-12

社会的痛みの進化

 社会的痛みの理論は、少なくとも最初期のほ乳類から受け継がれてきた社会的動物の適応戦略の一つであったとのアイデアに基づいている。例えば、高度に組織化された社会をもつヒヒの胎児は、母親が群れに受容されているほど1歳までの生存率が高いことが報告されている(Silk et al, 2003)。さらに扁桃体損傷によって社会的な接触をあまりもたなくなったサルは、群れから排斥され、しまいには同種から守られることなく死亡している(Kling et al, 1970)。こういった知見は、進化の過程において、集団に強く統合されている社会的な個体が生存及び繁殖し、また生殖年齢まで成長することを示している。言い換えれば、社会的に受容されていない個体は生存と繁殖において不利益を享受していたといえる。
 受容と排斥といった社会的な環境の変化に対応するために、社会的動物は排斥の検出を行うメカニズムを必要としたと考えられる。進化の過程において、そのような社会的排斥の検出機構を備えた遺伝的な変異体は生存が促進されたであろう。結果として、そのような変異体は社会的動物として利点をもち、その機能は世代を超えて受け継がれてきたと考えられる。社会的動物、特にヒトは進化過程において、受容が生存に必須となるより複雑な社会構造を発達させてきた。社会的排斥は、初期の社会的動物の時代から重要な脅威であったので、現代のヒトがしばしば経験する社会的な排斥事象も猛禽類や有鱗類(トカゲやヘビ)などの原始的脅威と同様に脳内では扱われているかもしれない。
 このように社会的動物は、排斥を検出するメカニズムを進化的に獲得してきたと考えられるが、その機能はまったく新しく構築されたものであろうか。進化生物学には、前適応(preadaptation)と呼ばれる現象がある。これは、以前の機能をもとに新しい機能を獲得するという進化論の概念である。典型的な例としては、鳥の羽が断熱や生殖のための飾りに利用されるようになったことが挙げられる(Sumida & Brochu, 2000)。この前適応の理論から、社会的動物にはすでに備わっていた身体的な危険に対処するためのメカニズムを、社会的な排斥の検出に利用したと考えらえられる。なぜ他のシステムではなく、身体的痛みのシステムが流用されたのであろうか。すでに述べたように、身体的痛みと社会的痛みは共通して生存を脅かす。他のシステムを流用した変異体は淘汰され、身体的痛みのメカニズムを流用した個体が生存・繁殖してきたと考えられる。身体的痛みのメカニズム流用が結果として最も適応的であったのであろう。
 より具体的な理由は、身体的痛みがその感覚的要素と情動的要素に分類される(Rainville, 2002)ことに起因する。痛みの感覚要素は、現在進行している組織ダメージが痛みに特化した受容体によって収集され、脊髄を経由して脳に伝達される情報といえる(Craig, 1999)。情動要素はその痛み感覚に伴う不快さの感情や、痛み到来の予期に伴う感情によって構成される(Prince, 2000)。この情動要素は感覚要素とは独立しているために、組織ダメージの情報なしに痛いという感情を経験することが可能であると考えられる。社会的痛みはこの痛みの情動要素を賦活させるために、身体的痛みの感覚がなくとも我々は痛いと感じると考えられる。しかし、進化的に身体的痛みの情動要素を社会的痛みに流用したのか、逆に社会的痛みに身体的痛みのシステムを利用したことで痛みシステムが感覚要素と情動要素に分離されたのかに関しては、議論の余地があろう。

Craig, K. D. (1999). Emotions and psychobiology. In P. Wall & R. Melzack (Eds.), Textbook of pain (pp. 331–343). New York: Churchill Livingstone. 
Kling, A., Lancaster, J., & Benitone, J. (1970). Amygdalectomy in the free-ranging vervet (Cercopithecus aethiops). Journal of Psychiatric Research, 7, 191–199.
Price, D. D. (2000). Psychological and neural mechanisms of the affective dimension of pain. Science, 288, 1769–1772.
Rainville, P. (2002). Brain mechanisms of pain affect and pain modulation. Current Opinion in Neurobiology, 12, 195–204.
Silk, J. B., Alberts, S. C., & Altmann, J. (2003). Social bonds of female baboons enhance infant survival. Science, 302, 1231–1234.
S UMIDA , S. S. & B ROCHU , C. A. (2000). Phylogenetic context for the origin of feathers. American Zoologist 40, 486–503.

0 件のコメント:

コメントを投稿